二宮金次郎さんのお知恵(参考)を一部紹介します
当社が所属しております日本樹木リサイクル協会
にて、6月21日に開催された講演研修会がとても感銘を受けました。
皆様にこの思いをシェアいたしたく、
箇条書きではありますが、講演の要約と感想を申し上げたいと思います。(長文失礼します)
テーマ:「現代社会に通ずる 二宮金次郎の人生観」
講師:中桐 万里子(なかぎり まりこ)様
二宮金次郎(尊徳)の7代目子孫でいらっしゃいます。
おおまかな内容
・二宮金次郎は何をした人かを一言でいうと、江戸末期に自然災害(富士山噴火や冷害等)で、不作等で苦しむ600以上の農村を再建した。
・少年時代の金次郎の銅像の足元をみると、足が一歩出ている。
→「どんな時でも(行動する)一歩を忘れるな。」「現実を目で見て向き合い」「少しでいいので目の前のことで行動しなさい。」
・なんで?には2種類ある。①のなんで?を②のなんで?に変えることが大切
① 怒りの何で?→「なんで富士山が噴火するんだ」→他責発言をしても、本人は事実に目をつぶって身動きが出来ない状態
② 目を開けて観察の何で→どうすれば、この道をすすめていけるのか?という自責発言が大切
・ 樹木の間伐時、森のプロは出来の悪い「めばった樹(条件が悪かったから成長しなかった木)」は絶対に切らない。むしろ、寺社仏閣に使用するくらい大切な木だと考える。
→その理由は、外部条件等が悪いのに死んでいない。それは、上に伸びないので根っこを下にはり、大切な養分を手に入れている。大雨の異常事態にもめったなことでは倒れない木になる。
→それと同様に、人の社会でも、悪ガキが社会に出てたくましく育つケースがある。そして、この木(劣等生)を育てた人がいたということを忘れてはいけない。
・見るには2種類ある。ただ見るだけの行為は【肉眼】。向き合い・よく見るという行為は【心眼(こころのめ)】。 心眼とは、時間軸を入れ、その時間のプロセス・ドラマ・物語を想像し、気づくことを意味する。
→大木ははじめから大木だったわけではない、何もない所から芽が出て、多くの風雨にみまわれながらも、少しずつ成長し、今があることを想像すること。
→人間の世界も同様、がんばっているのは自分だけじゃない。素朴な現実。たくさんの同士の汗、先人先輩たちの汗によってなりたっている。
・時間軸 ≒ 徳
→徳とは、長所・良い所ではなく、いまここに存在しているという事実、現実のこと。
困難があっても、逃げず、腐らず、あきらめなかったから、今ここに存在している。
・あらゆるものが徳を持っている。しんどい時にはこころ目を開き、徳をみてみる。
そして、苦節、挫折、困難をのりこえる。
・徳と出会うには、心の目を開き、慣れることに気を付ける。積小為大(せきしょういだい)、
小さい所に宝が眠っている。小さなものにであうには、慣れに気を付けて、もう一度
小さな【たから】を見つけて活かす。
・金次郎の大人の銅像は本を読んでいない。
→本を持つ手に筆を持ち、メモ帳、日記を持つ。 本から日記へ転換した理由は、
自らの目と感覚と経験であらためて現場に向き合うため。
→例えば、「10円玉」や「すずめ」を見たことはあるものの、なかなかその絵を描けない。
これが、慣れて見えなくなっている。見ているつもり、知っているつもり。
メモを取る事によって、10円玉、すずめの新たなことに気が付き見えてくる。
・「忙しい」人へのアドバイス
→必死で働いているのに、忙しく貧乏な(結果成果がでない)人の相談に、
金次郎はただ一言「そうじをしろ」といって帰った。
その後、その人は驚くほどV字回復をした。
その理由は、金次郎は納屋とトイレが汚かったことを見つけたから。
これは、時間・お金・空間・効率をロスしており、絶対にしあわせになれない。
掃除という小さなことを軽視していることは、命の時間の尊さを忘れている。
・掃除とは
≒小さなものを活かすトレーニング
≒こころの目をひらくトレーニング
・報徳とは、
→金次郎は、がんばれば報われるという考え方が嫌いだった 理由は2つ
その1:見返り思想だから。ダメではないが、ものの考え方が小さい。
その2:現実的ではない。現実はそんなにあまくない。
報われることもあれば、報われないこともある。そんなきれいごとは現実ではない。
だから、良く見ること、目を開いてよく見ること。
はじまりは、みんな新人であり、赤ちゃんだった。
たくさんのものに支えられて今がある。
今度は自分には何が出来るのだろうか?
時間軸で見ると、見返りではなく恩返し、
幸せだから頑張る。幸せになるためにがんばるのではない。
感動を与える側になる。
ありがとうの反対語は、あたりまえ
心の目をひらくことにより、ありがとうといってもらえるようになっていく。
恩返しこそが報徳である。
記 大村相哲